芸術幸福論 芸術に触れる人々は幸福なのか? ―文化資本論を手がかりとしてー

はじめにー文化資本と幸福ー

 本レポートの主題は「芸術に触れる人々は幸福なのか?」である。この問いは大きく2つの問いに分けることが出来る。すなわち、芸術に触れる場所へ通う「頻度と幸福度は関係があるのか?」、もっとも芸術に触れている者つまり「芸術家は幸福か」。今回は主に芸術に触れる頻度と幸福の関係について素描を試みたい。

 

文化資本論と幸福感

 一般的に「芸術は人を豊かにしてくれる」と言われる。確かに社会的な成功を収めている人々は小さい頃から美術館で絵画を、劇場でオペラを鑑賞している人が少なくない。

 

 文化資本の高さは社会的な成功と密接に関係していると説いたのは仏国の社会学者P.ブルデューだった。彼は文化資本を客体化されたされたもの、身体化されたもの、制度化されたものの3つに分けた。ピアノや絵画作品といった客体化された文化資本は、文化的財なだけではなく家庭に文化的雰囲気を作り出す。また「ピアノが弾ける」ということは、教育や訓練を経て身体化された文化資本であり、「暇があったら劇場へ通う」というような個人に内在化した趣向や慣習的行為をハビトゥスと呼んだ。そして制度化された文化資本は「芸術家」や「弁護士」などといった技術的な免状、社会的な肩書にあたる。そしてブルデューは「文化的再生産」、文化資本が世代間で継承され、社会構造が維持されるということを証明した。有り体に言えば「蛙の子は蛙」ということか。

 

・経済指標による幸福度決定の限界

 では、本当に高い文化資本を持つ人々は幸福なのだろうか?

文化資本が高い人々は、十分な収入や教育、学位などを持つ上位中流階級と言えるだろう。一般的には経済的報酬の高い層は主観的幸福度が高いと言われる。それは、経済的に豊かであれば住居や食、服飾、教育、娯楽(エンターテインメントや嗜好品など)、文化・芸術などに投資ができるからだ。

 しかし、内閣府が行った調査では1人あたりGDPと幸福度には相関関係があると必ずしも言えないことが分かった。このような要因としては、主観的幸福度が絶対的なものではなく、他者(この場合は他者の収入)との比較による相対的なものである点、健康、家族や友人との人間関係、地域コミュニティの有無、仕事への満足度、安全、政治の透明性などの様々な要因によって影響される点などが挙げられている。

 

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幸福度に関する研究会「幸福度に関する研究会報告」2011年12月5日

http://www5.cao.go.jp/keizai2/koufukudo/pdf/koufukudosian_sono1.pdf より引用

 

文化資本と幸福度の研究

 文化資本と幸福度についての研究は活発ではないが、社会階層と文化の趣向について論じたものがある。

 大衆文化からハイ・カルチャーに至る諸文化について、様々な社会階層に属する人々の主観的な判断に偏好が存在することを示しつつ、文化を評価する審美眼が、社会的地位などによって構成され、階層のハビトゥスとなっているとした(片岡、1996)。ハイカルチャー文化に慣れ親しんだ階層はハイカルチャー文化を消費する傾向が高く、大衆文化など自分にとって遠い文化に対して批判的であるということなどが明らかになっている。

 一方、芸術と幸福度については、美全般(人間美、芸術美、自然美)の享受と幸福の関係性についての研究がある。芸術の鑑賞と創造(自己表現)、特に創造は人間の個人的成長(幸福感など)に有意であるとしている(大曾根、2012)。

 

***美術館の訪問頻度と主観的幸福度の関係

 「美術館を訪れる頻度と幸福度は関係があるのか?」という問いを、先行研究を参照しつつ考察してみたい。

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 秋山(1998)はブルデュー文化資本論を参照しつつ、彼が行った仏国の美術館における訪問者調査を引用して、美術館を訪問する鑑賞者を対象化した。彼らは高い社会階層に位置する人々であり、中等教育を受ける以前から親に連れられて美術館へ通っている。こうした家庭環境が、文化のイニシエーション(通過儀礼)を経験させ、個人の文化資本を獲得させることで、結果、ある社会階層において「美術館へ通う」という行為が継承されていく。

 

 

マズローの5段階欲求の参照

 研究では当然、彼らの主観的幸福度についての言及は一切ないが、主観的幸福度が国民1人あたりGDPと相関関係がなく、さまざまな外的要因によって影響を受けていることを鑑みると「美術館へ通う」行為も2つの理由があると考えられる。つまり内発的な理由と、外発的な理由である。内発的な理由とは自身が無条件に美術館へ行くことを欲するもので、外発的な理由とはすなわち「周囲からの期待への応答」や「同じ文化水準のグループへの所属欲」などと考えられる。

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マズローの五段階欲求 Wikipediaより引用

 

 マズローの5段階欲求説を参照するならば、外発的な理由は、3段階目の「帰属欲求」および4段階目の他者から尊敬されたいという「尊厳欲求」である。内発的な欲求は5段階目の高次の自己実現を果たしたいという「自己実現欲求」と言える。

 つまり、社会階層の上位にある人々でも体裁を整える材料として「美術館へ通う」行為を繰り返しているのではないだろうか。世間から文化理解の高い人として理解されることを望むために、行為を重ねてイメージを再生産し続けている可能性がある。

 

・他者比較と文化資本

 仮にこのアイディアが妥当だとして、イメージを再生産せざるを得ない人は幸福なのだろうか?芸術の内容を理解し、その意味世界を旅することを愛する自由な旅人ではなく、自らに課せられた役目を粛々とこなす衛兵たちは、しかし城壁の中には守るものがないことを自覚しているかもしれない。

 他者との比較が主観的幸福度に及ぼす影響は大きい。浦川、松浦(2007)は生活満足度の決定要因として「親との比較」や「他者との比較」、「将来への期待」、「自分自身の希望とのギャップ」など の様々な「相対的要因」が影響を与えているとの仮説を提示し検証を行った。この研究では学歴は生活満足度に有意であり、教育水準(誤解を恐れずに言えば文化資本)が高いほど主観的に幸福であるという。そして「『過去と比べて現在の階層意識がどのように変化しているか』や 、『将来において生活水準を向上させる見込みがあるか』は、男性 、女性のいずれのサンプルにおいても生活満足度に大きな影響を与えていた」と結論づけた。

 人は集団で構成される社会で生きる生き物だ。他者への理解と他者との比較は表裏一体であり、その比較対象がこの研究で親世代とも比較されていることが支持されたことは、過去の状況から学ぶといういかにも人間らしいことだと考える。親からの世代を超えた贈与が文化資本であるとすれば、その資本が子世代を生かしもし、縛りもするということが、極めて粗い素描ながらおぼろげに浮かんできたように思う。

 

 

主要参考文献等

片岡栄美「階級のハビトゥスとしての文化支弁力とその社会的構成」『理論と方法』11巻1号, 1996年

秋山えみ「美術館利用者に関する一考察ー文化資本論に着目してー」『日本ミュージアム・マネージメント学会研究紀要 第2号』1998年3月

浦川邦夫・松浦司「格差と階層変動が生活満足度に与える影響」『生活経済学研究』第 26 巻、13-30頁、2007年

「地域のアイデンティティの再生」と「稼ぐまちづくり」:天草大陶磁器展の記事からの一考察

日経BPの6/27記事に天草大陶磁器展が紹介されていた!

第5回 熊本県天草市――陶磁器のブランド化などで移住者数は県内一 | 新・公民連携最前線 PPPまちづくり

修士課程に進学して初めてフィールドワークとして訪れたのが天草だった。以来、この南の島に何度となく足を運ぶことになった。大陶磁器展も2度訪れたことがある。

天草大陶磁器展を題材に、地域再生軸足は「地域のアイデンティティ復権」か「稼ぐまちづくり」か、どこにあるべきかを考えてみたい。

 地方でものづくりで生きていくことは厳しい?

私は今九州のとある自治体に住んでいるが、そこでもU・Iターン人材たちがものづくりを行っていて、最近はそれをどうやって売り出すかが焦点になってきている。ちなみにここで言うものづくりとは、主に個人事業主(またはごく少数の従業員を抱えた企業)が行なう、手仕事ベースの工芸品産業のことである。

田舎でものづくりをするということの特徴は以下のようなものだろう。

  1. 環境的な要因:土地や家賃が安く、初期投資が少なくてすむ。自然や景観、民俗文化などに富み、インスピレーションを受けることが出来る。また騒音も気にしなくて好い
  2. 精神的な要因:厭世的、隠遁的な生活とまでは行かなくとも、煩雑なコミュニケーションや世の中の主流派から(少し)外れることを志向する点
  3. 制度的要因:2010年代からは特に、人口の一極集中と地方からの人材の流出の是正を目指す政策が活発化したため、移住定住・創業の支援制度がある点

以上のようなことがメリットである一方で、デメリットも大きい。

  1. そもそも田舎に市場がないため、地域外などに取引相手を抱えていれば問題ないが、創業やスタートアップにはハードルが高い
  2. そして同業者や先達の不在。あるいは田舎特有の閉鎖性でコミュニケーションがとれない 
  3. 競い合いの関係が無いためにクオリティを保つのが難しい(人によるが)

特に、市場がないことは問題だ。商品を作っても地方にニーズがないため、対人ベースの販売はせいぜい糊口を注ぐことにしかならない。

 

ものづくりのブランディングと地域

地方に市場が無ければ、地域外へ市場を見い出す必要がある。インターネットなどを介せば世界へ売っていくことも容易だ。

だが現実には、ネットが発達したとは言え、個人がウェブサイトを運営しつつ精力的にものづくりを続けていくことは簡単ではないし、だからBASEのような委託販売サイトが存在している。こうしたサイトはカスタマーへの商品情報の提供を極めて簡素化し、かつある種の見え方をデザインしてくれるため、個人のものづくりの良い受け皿となっている。つまりブランディング(の一部)を担っている。

筆者はマーケティングの素人なのでブランディングについては詳しく知らないが、現在の日本で盛んなのが「地域」というブランディングのあり方だろう。

そしてその意味で天草は地域のものづくりを、天草大陶磁器展を通じてブランド化している。

 
文化的な資源の活用による、地域アイデンティティの再生1

「陶石の島から陶磁器の島へ」と題した住民決議を採択したのが、2000年。その翌年に「陶芸のまちづくり事業」を立ち上げ、他の産地との技術交流や海外の陶芸家の招聘などを企画。さらに陶芸の産業化を目指して、現在の「天草大陶磁器展」をスタートさせた。

第5回 熊本県天草市――陶磁器のブランド化などで移住者数は県内一 | 新・公民連携最前線 PPPまちづくり

2000年に開催された第13回県民文化祭「ミレニアム天草」での国際陶芸シンポジウムにおいて、「陶石の島から陶磁器の島へ」と題した決議文が採択され、天草市は、2001年度からの3年間、「陶芸のまちづくり事業」を実施した。そして2003年には、天草陶磁器が国の伝統工芸品に指定された。

【熊本県天草市】陶石の島から陶磁器の島へ ~天草陶磁器のブランド化と観光振興~ | IRC|株式会社いよぎん地域経済研究センター

地域のブランド化と密接に結びついているのが、地域資源(地域の文化資源)という考え方である。グローバル化の進む世界において、ファストフードなどのグローバル企業の商品文化は分かちがたく私達の生活に入り込んでいる。

一方でローカルなモノ・コトは情報化されにくく、流通量もすくない。そもそも現地に行かなければ触れられないものもあり、それだけ1次情報に近いため、俯瞰的に見た時に価値が高い。

フレンチのフルコースが大都市であれば世界中で食べられる一方で、地方で当たり前のように食べられる郷土料理は、地域の婦人会の手によって作られなければ味わえないのだ。

文化的な資源の活用による、地域アイデンティティの再生2

数ある天草の文化資源の1つが陶石である。だからそこで陶磁器を作るという正当性や妥当性は十分にある。地域のアイデンティティの再生策として、産業振興として「陶石から陶磁器へ」の転換を図ったのである。

では「そういう資源の無い地域では何もできない」、「妥当性が無い地域では何もできないのでは」と思われるけど実はそうではない。重要なのは、次の2点

  • 住民や産業の関係者たちが「陶石の島から陶磁器の島へ」という発想の転換をしたこと、つまり「地域の(文化)資源を見つめ直したこと」が重要。
  • そして「内発性」で、どれだけ地域住民や産業の担い手達が奮起して、地域内の開発を独自に行っているかということ。

陶石ほど明確な素材ではないかもしれないが、どんな土地にも歴史や文化・風習があり、それを資源化することと、自律的に行なうことに、まちづくりの核がある。

同時に、ジオパークに認定されるなど、観光および郷土教育に、天草陶石の元となる、豊かな地質資源の存在が積極的に活用されている。また、天草で作られている陶磁器の殆どは、基本的には日常雑器であり、日々の暮らしの中で手にとることが出来る。地域の資源を活かしたものが、地域の中で学ばれ、使われるということも、地域のアイデンティティを再生する上で重要な事だ。

 稼げるまちづくり

ところで、展覧会や物産展、特にこうした手工芸品・雑貨モノは、それ自体はそこまで金を稼げるようなコンテンツじゃないな、と思う。なぜなら大量生産が出来ないため、大きな消費は前提にできないし、カスタマーは一般的なファミリー層が主流だからだ。

さらに作家が技術を内面化できるようになるためには途方も無い修行期間が必要だったりするわけで、その時まで含めた人件費は度外視されている。それに1つ1つの品物が手頃な価格(皿1枚が2、3,000円〜高くてもせいぜい数万円)なため全体の売上も規模も決して大きくはない。

 

なのでこうしたフェアなり物産展なりをある程度継続して行えるようにする為には、公的な資金が無ければ開催自体が難しい。

この点、天草市は13年間にわたり陶磁器産業の振興に注力してきた。この陶磁器展も天草市経済部商工観光課が主体の実行委員会形式により開催される。

天草大陶磁器展の総予算は約2600万円。その半分を市が負担し、残りを陶磁器販売の手数料、各種イベントの入場料収入、物販などでまかなっている。「昨年は黒字化し、その利益で島内の陶磁器マップを作成、それによって個人工房にも客足が伸びた」

総予算の半分、約1300万円を市が負担しているという。ちなみにH23年度の総務省地域政策動向によれば、事業費は一般財源から約850万円だったので、事業費は年々増加傾向にあるようだ。

現在、政府は「まち・ひと・しごと創生」の総合ビジョンの一環として地方の生き残りを賭けて「稼げるまちづくり」を公民連携で進めている。空き家対策、移住定住、伝統的な町並み、観光、地場産業、健康…など「稼げるまちづくり」は多岐にわたる。

天草大陶磁器展のような事業をやれるということは、地方都市では希望的に目に映る。

「天草大陶磁器展」は複数の政策のあわせ技の一部

天草市も独自の「まち・ひと・しごと創生総合ビジョン」を策定しており、その施策の中で、

天草陶磁器の産地化、陶芸家から選ばれる島へ

を掲げている。

天草の陶磁器産業はものづくりが基本である。大規模な陶磁器メーカーが不在の一方で、小規模な生産者達が軒を連ねており、その門戸は常に新しい人材に向けて開かれている。親となる窯元が居るおかげで、子となる新規陶芸家たちが入り込むことができる。つまり移住・定住促進政策と雇用政策が合わさっているのである。そして、天草大陶磁器展の存在は観光振興であり、ブランディングである。こうした複数の政策のあわせ技が、民間の陶芸家たちと、行政の協働によって実現されているのだ。

 

 地域再生軸足は「地域のアイデンティティの再生」か「稼ぐまちづくり」、どちらか

地域のアイデンティティの再生は詰まるところ、どれくらい愛着を持って地域に接しているか、より具体的に言えば地域の様々な資源をどれくらいの頻度で使い、愛で、それによって楽しんでいるか、によって測られるのではないか。
文化資本は親から子に継承されるというが、天草の場合、地域の窯元で作られた食器で、親と子が食事を楽しむことに日常的であればあるほど、地域のアイデンティティは形成されやすい。

天草の丸尾焼は熊本震災の復興として、2016年夏に熊本市現代美術館にて「丸尾三兄弟 〇O(マルオ)の食卓」を開催した。被災すれば日常から器が消え、紙皿などで食事を済ませることも多くなる。食事風景の写真を送れば器が1枚もらえるというこの展覧会はartscapeにも取り上げられた。

「表現の森 協働としてのアート」/「丸尾三兄弟 〇O(マルオ)の食卓」:キュレーターズノート|美術館・アート情報 artscape

 

一方、そうした人々の生活に根付いた陶磁器の文化が、衰退著しい地方都市の起爆剤となることがこの13年の天草大陶磁器展の取り組みからわかる。もちろん同展にも様々な課題はあるだろうが、成果はきちんと上がっている。

同展は2016年11月開催の前回で13年目。第1回は島内外から33窯元が参加、来場者数は約1万1000人、売り上げは約500万円だったが、前回は約100窯元が参加、来場者約2万2000人のうち半数を島外客が占め、売り上げ約3300万円と大幅に規模が拡大。市の試算では、島内への経済波及効果は1億円にも上るという。

しかし時に、政策目標を達成することに主眼が置かれすぎるときもある。

暮らしの根幹にある食文化を大切にしたいという想いを支える陶磁器が、効率性や収益性ばかりが重視されてしまい、一部のアートフェアのようになってしまわず、常に人々に寄り添ったものとしてあって欲しいと願う。

そのときにはじめて、地域の文化が、真に他の人々に受け入れられ、その地域が発展するということになるだろう。天草の陶磁器という文化資源を活かした地域再生の取り組みは、その1つの態度を私たちに見せてくれているのかもしれない。

社会と関わるアート…"SEA","アートプロジェクト"

長い前置き

アートと社会の関係を考えたことはあるだろうか。

大雑把だが、少し歴史の話をしたい。

 

かつて、近代以前、アートは王侯や宗教、特権階級が権力の誇示と密接だった。そもそもアートというものが単独で存在するのではなく、装飾などの役割を担っていた時代。これを第1世代と仮称しよう。社会は封建的で、階級も固定的だった。

 

さて、市民主体の国づくりが進んだことで、美術館に行けば絵画や彫刻、インスタレーションや映像作品を観ることが出来、劇場に行けば舞台や音楽を楽しむことが出来る。アートの民主化の進展だ。これを第2世代と捉えてみたい。社会は民主主義を前提としていて、平等な社会が成立した。日本もこれに倣った、世界的な動きだ。

しかし逆に言えば、アートを享受する機会を人々が自ら捉えていかなければ、アートに触れる機会はそうそう多くないのも現実だ。それに、社会的な平等とはあくまでも理念的で、社会には未だ貧困や差別と偏見が大きな問題として残っている。アートに触れる機会は偏在していて、一部の人はアートを観て語り合うことすらままならず、その一部はアートを嫌ってすらいる。アートが自分に何もしてくれない、利するところのないものだからだ。

 

だが世の中を見渡してみよう。最近ではそういう専門施設を飛び出して、街なかや廃校、使われなくなった工場などでもアートを観て楽しむことが出来る。さらに観光や自治体の政策と結びついた芸術祭やアートプロジェクトも盛んであるし、高齢者や障がい者、マイノリティも含めてアートを交えて支援していく取り組みは全国的になった。

こうした社会の動きに反応していく動きは、ますます加速している。これは第2世代が「思いさえあれば誰でもアートに触れられる」という状況を「受動的」だとしてより「能動的」に人々、市民社会へ関与していくアートということができそうだ。いわば第3世代のアートだ。

第3世代のアートは、根底に「社会的な正義(Social Good)」を前提としているように思える。つまりそれは、第2世代がなし得なかった真の意味でのアートの民主化を可能にしつつある。そこまでお膳立てをしても、アートに無関心で、憎んでいる人もいるだろうが、それは個々人の自由だ。

 

こうしてみると、いよいよアートはここ150年ほどの間に、その性格を大きく変えたのではないだろうか。しかし、果たして本当にアートが、社会に深く/広く関わることが市民社会にとって、またアートにとってよいことだったのだろうか?また、どのような成果や課題が、アートと社会の関わりで生まれたのか?

 

 

イベント概要

6/25(日)、Fukuoka Growth Next(旧大名小学校)にて九州大学のソーシャル・アート・ラボ(SAL)が主催のトークイベント「社会をよみかえる」の第1回が開催された。ゲストは美術家・藤浩志、金沢21世紀美術館キュレーター・鷲田めるろの2名。テーマは「ソーシャリー・エンゲイジド・アート(SEA)をめぐる議論」として、90年代から盛んになったアートプロジェクトなど、社会にかかわる芸術活動について、アーティスト、キュレーター、研究者の立場から語り合うというもの。

 

イベントでは、

J.Jack氏(九州大学特別研究員)がアーティストとしての自分の活動とSEAの考え方を、鷲田めるろ氏がアーティストの活動(アートプロジェクト)を美術館として支援する上での悩みや間違い、成功について詳細に教えて戴いた。藤浩志氏も自身がアーティストとして、参加する人々の主体性を支えるために仕組みをつくっているという、アートプロジェクト=地域のOSという考え方をお示しいただいた。

 

では現場でどんな議論があったのか?次回はそれを観ていこう。